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1. 1994年3月に日本でも映画「バック・ビート」が公開され、コアなファンでは無い方にも“スチュアート・サトクリフ”氏と、“アストリッド・キルヒヘャ”さんの、お二人についてのことが知られることとなりました。

これはその当時、映画公開のタイミングに合わせるように開催された“もうひとりのビートルズ展 Stuart & Astrid ”の案内です。

既に15年以上も前のものになりますね。こうした機会にでもないかぎり、日本国内ではまずお目にかかることもままならないお二人の作品を、まとめて見られるといったことは貴重だったと思います。案内でも「世界初の展覧会」を謳っていました。

2. 上記の映画「バック・ビート」の劇中歌を収録した、英国盤アナログLPレコードです。

ビートルズの2ndアルバム「With the Beatles」を模したようなデザインですが、肝心の主演の俳優2人がまったく似ていなかったので、何だか複雑な心境でした。

“クラウス・フォアマン”氏によると、俳優が似ていないだけではなく、内容的にも事実とはかなり異なった部分が多く、“?”な出来映えのようです。もっと正しい事実を知りたいと興味を持たれた方は、是非「Books」のところに紹介してある書籍などを読まれることをお勧めいたします。

LPの中身については、ビートルズのオリジナル曲は1曲も入っておらず、収録の12曲全部が、デビュー前にレパートリーにしていたスタンダード曲のカヴァーです。

因みに、曲の演奏と歌はジャケットに写った俳優たちとは関係の無い、プロのミュージシャンたちによる吹き替えとなっています。

3. 解散後、7年も経ってから発売された、ビートルズ唯一の“公式”コンサート実況録音盤「THE BEATLES AT THE HOLLYWOOD BOWL」(邦題「ザ・ビートルズ・スーパー・ライブ!」)の、国内盤アナログLPレコードのジャケットです。

このLPレコードの音源は、録音当時にはクオリティの点などから、関係者からダメ出しがでたため“お蔵入り”となっていた、’64年と’65年に米・Capitolレコードの要請により“ジョージ・マーティン”の指揮の下で録音が行われた3トラックの録音テープが見つかったことから、それをを元にして’77年に両日からのベスト・トラックを選び出し、編集作業にて曲間を違和感がないように繋いで、1回のコンサートであるかのように仕上げたものです。

解散後に7年も経ってから出た「公式ライブ盤」には流石に驚き、またうれしくも思いましたが、こうしたものが企画された裏には、闇で取引されている“海賊盤”の影響があったのかもしれません。

4. 上記の、「THE BEATLES AT THE HOLLYWOOD BOWL」、国内盤アナ ログLPレコードのジャケット裏面です。

ジャケットの仕様は、“ゲイトフォールド・ジャケット”と呼ばれていた見開きのタイプで、内側には「ハリウッド・ボウル」のステージに立つビートルズの白黒写真に、当時のコンサート・プログラムや、缶バッジ、ペナントなどのスーベニア・グッズがコラージュされたデザインになっていました。

全13曲が収録されており、今時のコンサートに比べるとやけに曲数少ない気がしますが、これが当時のビートルズのコンサート演奏曲数の標準でした。2010年現在、LPレコードが廃盤となって以降、未だに公式にCD化が果たされていないアルバムの1つです。

因みに、この「ハリウッド・ボウル」についてですが、名前からすると、何だか日本人には馴染みのない「Bowl」という呼び名にイメージが沸きませんが、要するに「日比谷の野外音楽堂」のような、野外ステージのコンサート会場なのです。私も、’80年代前半に初めて行った、サンフランシスコ〜ロサンゼルスの海外旅行の際に、実際にそこを訪ねる機会をもちました。

参考までに、ここではBeatlesと同様に、やはり英国の人気コメディ集団「モンティ・パイソン」の連中もLiveを行っています。彼らと、Beatlesのメンバーのと交流も有名ですね。

5.「Have You Heard the Word」という曲の数奇な運命

 このCDは、“Beatles”ではなく、“Bee Gees”の「関係した」曲を集めたものです。しかしこの中に、熱心なビートルズ・ファンの方だったら「それ、知ってる!」と言う可能性のある、「Have You Heard the Word」という1曲が含まれているのです。

恐らく、この曲とBee Geesとの関係を公認した上で、公式な音盤に収録されたのはこれが初めてなのではないかと思います。

しかし、音のほうがどうも....。

それらを解くには、色々な事情を説明しなければならないでしょう。

まず、なぜ「熱心なビートルズ・ファンだったら知っている」のか?

 それはこの楽曲が、“一体いつ何処で誰によって作られ、そして録音された物”であったのか、それがまったく分からないまま、「とある市場」に出回ったものだったからなのです。人々はそれを“海賊盤”と呼びました。

当ホームページの性質上、この“海賊盤”と呼ばれる物についての言及は避けますが、まあ、コアなマニア向けの「非公認商品」です。
そして‘60〜‘70年代当時、これらの“海賊盤”と呼ばれる物の中に何曲かの、“ビートルズの未発表曲”とされる曲が入っている物が存在する、というウワサが立ちました。

しかし結局、その殆どがデマであり、いかにもビートルズ自身の声や演奏らしく聞こえそうな楽曲を、「全然関係がない、他の市販のレコード」などから熱心に探し出してきて、要するにソックリ声のソックリ演奏をもっともらしくデッチあげていたものばかりなのでした。

 当初は謎とされたそれらの楽曲も、年が進み情報が整理され、近年になればなるほど研究者の追求もより確実な物となり、その大半はその正体=出所が明らかにされていったのです。

ところが、この"Have You Heard the Word"という曲に関してだけは、いつまで経ってもハッキリとした情報が得られず、本当にごく最近まで謎のままになっていたのです。

とにかく、この曲にまつわる話というのは、“1970年6月頃に録音された、BeatlesとBee Geesのメンバーによるセッション”なのである、とまことしやかに言われ続けてきたものでした。

しかしその後も、そうした事実を確認出来るようなデータや証言などがあらわれることは全く無く、関係者の口からもそれを裏付けるような逸話などが出てくることはありませんでした。

そしてまた一方では、きく人が聴くと、たしかに(Beatlesは別としても)Bee Geesのメンバーの声らしいとか言われていたりで、全くもってミステリアスな曲だったわけです。

それが急転直下、1999年以降になって、この曲の作者であり録音メンバーの一人でもあった人物の証言が出たことから、ついに解明される時が来たのでした。

 同CDのライナーノーツと、私が知った英語のサイトから得られた当事者の証言によれば、それはBee Geesのメンバー“Maurice Gibb”がマネージメントとプロデュースを行っていたオーストラリア人のデユオ"TinTin"が録音を行っていた、ロンドンのI.B.C.スタジオに、その“Maurice Gibb”と当時彼の妻だった歌手の“Lulu”、そして彼女の兄弟である“Billy Laurie”の3人がやって来たことに端を発していたのです。

そしてその時、彼らによってスタジオに持ち込まれた1本のスコッチ・ウイスキー、“Johnny Walker”を飲んだことから、このメンバーによる、Beatlesの『Rubber Soul』の“The Word”(愛の言葉)にインスパイアされたこの「パロディ」の録音がなされることになったという、まさに偶然の産物と言えるものだったのでした。 (元歌の“The Word”に「Have You Heard ,the Word is love...」という箇所が存在します。)

要するに、「プロのミュージシャンが酒に酔った際のノリで、録音スタジオ内でやった“ビートルズの物まねゴッコ”のような演奏がそのまま録音されていて、小遣い稼ぎか何かのためというような理由で、それが関係者の手により故意に流出され、インディペンデント・レーベルの『Beacon』に持ち込まれてSingle盤化されたものが元々の音源になったものだった」、というのが主だった真相で、当のご本人すら23年も後になってから流出して出回っている事実を知ったとか?

 因みに、その元音源になったという、このインディペンデント・レーベルの『Beacon』からの“The Fut”名義の「Have You Heard the Word、c/w Futting Around」のSingle盤と同じ物(の、たぶん複製品でしょう)は、少なくとも30年ほど前から私の手元にも有りますので、話の一致によりどのような存在のモノだったのかわかり、これでやっとナットク出来た感じでした。

 このような経緯から、公式録音されて音盤になった物ではない音源が流出して、意図的にフェイクとして使われてしまったため、当時のその当日の関係者以外の何者もこの事実を知り得なかった、ということだったのでした。

それにしても、仮にも「プロのミュージシャン数人が、プロの録音スタジオ内で、“作為的にビートルズの物まねをして”オリジナル曲を録音したもの」だったことで、なまじその出来映えやクオリティが高かったため、長年の間見破れることなく、だれもその真相に迫った者は居なかったワケです。

 またこうした、私が知り得た範囲での情報に関しての真偽については、先述のBee Geesとの関連を公認した曲を集めた正規盤CDに、この曲が収録されたという事実が、それを裏付けている証ではないかと思います。

そしてこのCD収録の同曲の「音に難あり」なのは、元々の音源自体が流出してしまっている上、正規の(マジメな)録音では無かったことから、関係者の手元には既にオリジナルの録音が残されていなかったため、レコードからの採録であることが想像出来ます。

 この数十年に渡った謎の真相がついに解明された今、「ビートルズの未発表曲ではないか?」と人々を悩ませ(欺き?)続け、そのミステリアスさ故、結果としてマニアたちにロマンさえをも与え続けてきたとも言える、この曲にまつわるお話は、裏ビートルズ史(?)上、特筆に値するものだったと思います。

また、当のBeatles関係者さえもこの曲の存在を認識していた逸話がのこされていて、ジョン・レノンは1974年頃この曲を聴いて、「自分たちのサウンドに良く似ている、良いイミテーションだ」と述べたとか。更にオノ・ヨーコは、1985年にこの曲を、“ジョン・レノンの曲であると信じ込んで”著作権登録を行おうとした、とか伝えられています。

 そしてなんといってもこの曲、単純に聴いても、良く出来た良い曲なんです。(まあ、何だかんだと長年にわたって聴き慣れていることも...)もはやBeatlesとの関係有る無しによらず、愛聴盤とされている方も案外多いのでは?

それもその筈、この曲の作者のその正体は、その後シカゴの「忘れ得ぬ君に」、オリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」、「ハート・アタック」、「トウィスト・オブ・フェイト(運命のいたずら)」や、最近もクリスティーナ・アギレラの「ジニー・イン・ア・ボトル」といった大ヒット曲のライターで、元"TinTin"というデユオのその一人だった“Steve Kipner”氏による物だった、ということですから。

Books


1. 世界に先駆け、我が国独自の監修で出版された『ビートルズ事典』=Dictionary of the BEATLES です。

 初版は1974年に出版され、その頃のLPレコード並の値段の豪華本だったにも関わらず、当時話題となり、かなり売れたようでした。 写真は、13年後に改訂増補された新版で、デザインが異なっており、初版は真っ黒地にグリーンのリンゴが中央に描かれたシンプルな表紙デザインで、そちらの版を当時購入しました。

 その頃は、このようなきちんと系統立ててその内容を表したような「ビートルズの研究本」的ものなど、内・外ともに存在しておらず、その画期的な内容に多くのファンが驚いた事と思います。

只でさえ、海外からの正確な情報が、今のように容易には入手できなかった時代に、これだけの内容をまとめ上げたことは賞賛に値するものだと思います。

 4人のバオイグラフィー、リヴァプールやロンドンの縁の地の紹介、活動期の年表、映画とプロモ・フィルム、コンサート、使用楽器、関連書籍、交友関係、ミリオンセラー、曲のランキング、ファン・クラブ、アップル・コープスや作品の紹介、レパートリー等についてはもとより、特に興味深かったのが、“ディスコグラフィー”、“アルバム「GET BACK」”、“ハンブルク・テープ”、“クリスマス・レコード”、 “海賊盤”のことなどについて言及した解説でした。

 まさにこの本は、私にとっての「ビートルズの入門書」であり、1994年に「ビートルズ全記録」の翻訳版が出るその時まで20年近い間、これに匹敵するだけの内容とクオリティを兼ね備えた本が登場することは無かったと言えましょう。

‘74年の出版物ゆえ、訂正が必要と思われる箇所もあろうと思いますが、その’70年代当時現存していたアイテムや建築物などを収めた写真等は逆に貴重なものでしょう。現在でも、ながめているだけでも十分楽しめる一冊であり、資料だと思います。

2. この本ほど、その翻訳〜出版を待ち焦がれた本はなかったですね。これが日本で出版されたのは1976年5月25日(原本は’75年)、当時は『ビートルズ派手にやれ!』と題された本で、その著者は「ビートルズの最初のマネージャー」といわれていた“アラン・ウィリアムズ”氏だったのです。

 既にその当時、「ビートルズのメンバーは、元は5人組だった」という事を知っていた私は、“Stuart Sutcliffe”氏や、“Pete Best”氏についてのことをもっと知りたい願望に取り憑かれていて、既存の書籍にはそうした部分についての記述が殆ど無いことを知って、落胆していました。しかしある日、“アラン・ウィリアムズ”と言う名前の“ビートルズの元マネージャー”が暴露本らしきものを書いているという事を何かで知って、「この人物こそ、自分が知りたいと思っているような事実の、その殆どを知っているに違いない」と確信し、その出版を心待ちにしていたものです。そしていよいよ、その翻訳本の出版予定とそのタイトルが決まって、音楽雑誌などに案内が載った時にはとても待ちきれない気持ちで一杯になったのでした。

 発売日当日には、本屋にすっ飛んでいって手に入れたものです。そして、一晩挟んだ二日間くらいのうちに一気に読んでしまいました。そこには確かに、自分が待ち望んでいた知りたかった内容の殆どが有ったのでした。

但し、著者の「個人的感情や見解」も当然のことながら含まれていると考えられますから、すべてが真実通りかどうかは判りませんが、これ程までに彼らの身近に居て、当時の彼らのことを詳しく知り得る人物というのは、そうは居ないと思いますので貴重な話である事に変わりはないでしょう。

 参考までに、“アラン・ウィリアムズ”氏は“Stuart Sutcliffe”氏のことは個人的にも好印象を持っていて、彼のことを気に入っていたようであり、それなりに高く評価していたようです。そのためか、この本では“Stuart”氏の死の直後の“Astrid Kirchherr”さんの様子や、彼女と“Stuart”氏の母親との間で、彼の死後も続いた確執などについても触れています。逆に“Pete Best”氏との関係は醒めた関係だったようで、「向こうがその様な態度だったので....」と述べていますが、特に悪く言ったり、貶めるような記述などは有りません。

また、文面からは、私情に関しても割と正直に率直に述べているように感じられ、悪い印象を感じる部分は有りませんでした。

 この本の内容こそ、映画「バック・ビート」に使われているストーリーの“本物”版=オリジンと言えるものです。特に“Stuart Sutcliffe”と“John Lennon”の友情、“Stuart とAstrid ”の事をもっと詳しく知りたいと考えている方なら、「必読の書」に違い有りません。

本の原題は“The Man Who Gave The Beatles Away”=“ビートルズを手放した男”といい、著者本人からすれば、人生の好機を逃した人物による回想録といった趣の著書です。

 参考までに、写真にある本は1987年9月10日発行の“新装版”で、題名も『ビートルズはこうして誕生した(ビートルズ派手にやれ!改題)』と改められた版です。尚、内容自体に違いはないようです。

3. この本もまたその当時、翻訳〜出版を待ち焦がれた本でした。日本で出版されたのは1979年7月1日(原本は’78年)。“John Lennon”の先妻で“Stuart Sutcliffe”や“John Lennon”とは「リヴァプール・カレッジ・オブ・アート」でも一緒だったという関係の、“Cynthia Lennon”による手記が発売されると言うことを、音楽雑誌などの告知で知った時には、やはり待ちきれない気持ちで一杯でした。

 出版年月日をご覧になってお分かりのように、これが日本で出たのは“John Lennon”が他界する一年ちょっと前にあたる時期です。

 その頃と言えば、’75年初旬発売のソロ・アルバム「Rock’n Roll」と、その下旬に発売された、「SHAVED FISH」と名付けられた、ソロ期のベスト盤を最後に、ジョンが音楽業界の表舞台からその姿を消して既に4年が経過し、世間一般の人からみれば、既に「過去の人」として忘れられつつあったのでした。

 そしてその頃が一番、ジョン・レノンにハマッていた私としては、彼についてのことは“何でも知っておきたい”時でもありました。 しかし、このような時期でしたから、只でさえ殆ど海外からの情報も伝わっては来ず、最ももどかしい時期であったと言えます。ですからなおさら、「その最初期から、彼の最も身近にいた人物」による手記が出版されると知ったときの驚きと、期待といったらありませんでした。

そしてこれについても、発売日当日には本屋にすっ飛んでいって手に入れ、アッという間に一気に読んでしまったのを覚えています。

 本を読み進むと、やはりそこには身内しか知り得ないようなプライベートな事までが書かれていて、それは時代に流れとともに、リヴァプールの学生時代〜ハンブルク〜スチュアートの死〜ブライアン・エプスタイン〜ロンドン〜人気絶頂期〜オノ・ヨーコの登場、といったような内容が語られていました。

この本も、個人的には“必読書”であると思いました。

 前半部分はやはり予想通り、“スチュアート”の事が多く語られていて満足したものです。でも、“アラン・ウィリアムズ”氏の場合と同様に、そこには“ピート・ベスト”氏のことは殆どあまり触れられてはいませんでした。逆に、“アストリッド”さんの事については、“スチュアート”氏の死後も後年まで交友は続いていたようで、他の本よりも後年の時期までの様子が窺えます。

 しかしこの本の内容で最も衝撃的だったのは(概ね予想はしていましたが)、「ジョン・レノンとオノ・ヨーコ」の二人による、シンシアへの仕打ちでしょう。彼女に旅行に出掛けるように勧めておいて、その間に自分たち家族が暮らす“自宅”へ「ヨーコ」を引っぱり込んでの数日に及ぶ不倫と、何も知らずにその“自宅”へ帰ってきてその現場を見せつけられた彼女の心情を思うと、余りにも痛々しくて眼を背けたくなる思いでした。こうした行為に、「ジョン・レノン」という人の内面にある、冷酷さ、残忍さを感じざるを得ませんでした。

 そして、この本の“救い”はその傷心のシンシアの元にひとりでやってきて、赤いバラを1本差し出して「どうだいシン、僕とお前、結婚したらどうなの?」と冗談まじりに言って慰めた「ポール」の優しさでしょうか?それから“Paul McCartney”は、父親を失った彼女の息子のために「Hey Jules」、改め「Hey Jude」を作ったのでした。(Julesとはジョンの1人目の息子“Julian”の愛称なのです。) 人間の中には、“優しさ”と“冷酷さ”が混在しているものなんだということを教えられた思いです。

4. これは1984年12月15日初版発行の本です。著者は日本人のジャーナリスト“高尾 栄司”氏で、著者自ら独自に取材を行って、存命している当時の関係者は勿論、“Pete Best”氏本人や母親に直接交渉〜現地取材を行ったもので、他の書籍とは違って翻訳本では無い、珍しい日本独自企画の書籍です。

 内容については、当事者たちへの上記のような直接取材により、これ以前の翻訳本などによる記述や、それまで通説とされてきた話の矛盾に迫り、その真相を追求しているのがこの本の特徴と言えます。

 ビートルズが現役だった時代に出版された本の殆どは、彼らのサクセス・ストーリーという趣で、彼ら自身とその取り巻き連中には都合の良いような事だけ、或いは都合の良いような内容に“仕立てあげた”事しか書かれておらず、場所、時間、人物、その詳細について、真実とは言えないような事柄に満ちていたのでした。

 一番左側に写っているのが、この本の主人公である“Pete Best” 氏です。NHKハイビジョンにて、比較的最近になって行われた「インタビュー」が放送されたのを、ご覧になった方もおられると思います。“Beatles”脱退当時は、「あいつはドラムが下手だったからクビにした」という悪意あるウワサ(理由)を流されたことで、嘗ての仲間である“Beatles”が有名になればなるほど、逆に世間に追い詰められていったという、不遇な(不当な)扱いを受けた方でしょう。

“Beatles”のメンバーとしての「適・不適」については、また別の問題だと言えるでしょう。全世界が自分に対して冷淡だった中、よくぞ生き抜いた方だと思います。そういう意味に於いて、とても立派な方です。

 この件についても、“スチュアート”の時と同様、首謀者は“ポール・マッカートニー”氏と言われています。今度は自分がビートルズの“No.1”となるために、当時メンバー中で最もリヴァプール=キャバーンの人気者であり、「一番の美男子」とみなされていた同氏が邪魔な存在だったのだという理由で。まあ、元々野心家と言われるような方ですから....。

 この頃は、「〜 & 〜ズ」のように、メインのヴォーカリストを決めて、リーダーのようにグループ名の前にシンボライズするのが人気グループの特徴だったのです。

意外なことに“ジョン・レノン”は、独逸ポリドールにおけるレコーディング時と、英国パーロフォンでのレコーディング時の両方で、そのポジションについてダメだしを受けていて、そうすると残るのは(年少のジョージは対象外なので).....。

結局、ドラマーの交代劇のあとでは、この「〜&〜ズ」案は採用されず、単純に“The Beatles”として、世界にその名が知られていくようになったのでした。

 余談ながら、“ジョージ・ハリスン”は癌で他界しましたが、その前までには、自らの意志で「当時のやり方はフェアじゃなかった」との事を詫びるため、数十年ぶりに“ピート”の元を訪れて謝罪したそうです。ずっと気に掛けていたのでしょうね、当時は仲が良かったとのことでしたから。

その“ジョージ”の気持ちを嬉しく思い、“ピート・ベスト”氏も彼を受け入れ、また昔のように「親友」に戻ったそうですが、まもなく“ジョージ”はこの世を去ったのでした。

 そのことについて“ピート・ベスト”氏は「“ジョージ”とはずっと親友だった。(昔から)とても良い奴だった。彼のことは生涯忘れない。」というような内容のコメントをしていました。

“クラウス・フォアマン”氏もまた“ジョージ”については、自らの著書の中で当時の独逸時代を振り返って、「弟のようで可愛い少年だった」、そしてそれ以後も変わらず、ずっと「純粋な性格で、良い奴だった」というような内容の、殆ど同様なコメントをしています。

5. 1960年、独逸に於いてBeatlesと運命的な出会いをしてしまったその人、“クラウス・フォアマン”氏が、日本のビートルズ関係誌から依頼されて2001〜2007年まで執筆した連載の原稿を、その後1冊の書籍としてまとめたものが2007年9月4日発行の『ビートルズ / リメンバー』です。

 独逸時代の「5人組」下積み期に彼らと知り合い、グループ時代〜ソロ時代を通して交友関係を持ち続け、公私ともに彼らを見つめ続けてきたその人によるBeatleたちへの眼差しは、限りない優しさに満ちたものです。

 内容的には、連続的なみっちりとした記述の内容ではなく、メンバー毎それぞれについて、ご本人にとって特に印象に残っているエピソードを幾つかずつ語っています。当時、彼らを見つめていたその瞬間を、自ら思い起こすように振り返っている事が伝わってくるような文面です。

 惜しむらくは、21世紀に入ってからという、比較的近年になって執筆された本なので、その当時との時間的距離があまりにも離れてしまっている故、内容的にご本人の記憶部分との誤差が生じてしまってはいないだろうか、ということがちょっと気に掛かります。

 それでも、それを差し引いても、ご本人しか知り得ないエピソード、元々は自分の恋人だった“アストリッド”さんへの思いや、その恋人を取られてしまった相手でもある“スチュアート”との友情、ホームシック気味だった一番幼い“ジョージ”をずっと弟のように思い時折面倒をみていたこと、ハンブルク時代からの“ジョン”との友情、“ブライアン・エプスタイン”、“アラン・クライン”、“フィル・スペクターとロニー”、“ハリー・ニルソン”、そして「リボルバー製作秘話」など、直接彼らのそばにいた人物だけが知りえる内容は、リアリティを持って読む者を惹きつけます。

 生前“スチュアート”が愛用していてグループを脱退した際、その『ヘフナーNo.333ベース・ギター』を“クラウス・フォアマン”氏が譲り受け、渡英の際にも「どうやってこの大荷物を運んだのか?、イギリス当局の目をくぐり抜けたのか?今となっては謎だ。」という具合に、他のギターやテープレコーダー共々、ロンドンまで運んできたという事実も、この本で知ったのでした。

6. 「ビートルズ / 全記録」①・②は、それぞれ1994年6月30日・8月31日に発行された、ビートルズ研究家の“マーク・ルイソン”によって調査・執筆が行われた「コンプリート・ビートルズ・クロニクル」の日本版です。

同氏がビートルズ・ヒストリーについて、12年の歳月をかけて調べ上げ、検証を行ったもので、この時点で入手出来うるかぎりの“写真”、“書簡”、“契約書”、“ポスター”、“ビラ”、“チケット”といった当時の資料が、年表形式の本文中にスクラップ・ブックのごとく添えられており、その数、実に500点以上に上るとか。レコーディング日時やレコードの発売日、コンサートの日時といった事を始め、ビートルズ史において当事者、直接の関係者たちに起こったことなどを、1957‐1964と1965‐1970の前期・後期の2冊に分け、4人の出会いから、ポールの脱退宣言までの期間を網羅したものになっています。

 公式の資料となりうるべきその意義から、関係者の協力の下、それまで未公開とされてきた内部資料をも多数含んでおり、ビートルズ歴史年表の決定版ともいうべき内容です。

この2冊と、別冊付録となる「索引・完全データ集」が有れば、“ビートルズ正史”の全容を掴むことが出来るでしょう。これに加えて、やはり同氏が調査・検証を行った著書、「ザ・ビートルズ レコーディング・セッションズ」があれば、殆どのことは分かるようになると思います。

 しかし、まさに“ビートルズ正史”を明らかにした「データ」であり、それ以外の部分については、その性質上、全く期待は出来ないでしょう。

 特定の時期や、特定の人物像について掘り下げて言及したものとは、全く性質の異なるものなので、読み物的な要素は殆どありません。従ってその意味からは、「人間ビートルズに迫る」には、上記の書籍のような、身近な関係者によるものを読まなければ無理でしょう。

また、この本が登場したのが1994年で、20世紀も終わりに近づいていた時期です。ビートルズの解散からは、既に24年が経過しており、日本独自の「ビートルズ事典」の出版からでも既に20年が経っていて、幾ら何でも“遅きに失する”のではないかとも思えました。 ここまでは突き詰めた内容でなくても、これ程のグループについてのデータの調査〜管理が、なぜもっと早期になされなかったのか? という疑問が湧き、不思議でなりませんでした。

 尚、この本は現在、1994年版の「ザ・ビートルズ/全記録」①②巻(プロデュースセンター出版局)を一冊にした、『ザ・ビートルズ ワークス』(洋泉社)というタイトルのリニューアル版で2008年11月26日に再販されています。

7. 『ビートルズ百科全書』という邦題のついたこの本も大型本で、1994年6月20日に日本版が発行されました。この日付をよく見れば、お気づきのように、「ビートルズ / 全記録」①発行の1994年6月30日から10日前という、ビミョーなタイミングですね。

 どちらも、当時としては安い買い物とは言えませんので、「ビートルズ / 全記録」①・②と、本書の3冊全てを、発売と同時に購入するのはちょっと厳しいでしょう。

そこで、『ビートルズ百科全書』の出版元の集英社も、発売のタイミングを調整した結果ではないかと、考えたくなります。

 本書のスタイルは、百科事典式にABC順に並べての記載方法で、索引の活用にて、容易に知りたい項目にアクセス出来るのが特徴であり、「ビートルズ / 全記録」が採用している年表式とは全く違った印象です。

 執筆者は、『マージー・ビート』という言葉の考案者であり、同名の英国音楽誌の創刊者“ビル・ハリー”です。参考までに、この人物は当時“スチュ”と“ジョン”と、後に彼の先妻となる“シンシア・パウエル”(ジュリアンの母)の3人と、「リヴァプール・カレッジ・オブ・アート」で一緒という関係だった人で、また、この学校の隣が“ポール”と“ジョージ” の通う学校なのでした。

 従って、ビートルズの面々とは旧知の間柄であり、また、1961年からは『マージー・ビート』誌をやっていたことで、その当時からの記録や資料、知識の積み重ねといった要素(実績)もあり、そのデータが30年にも及ぶことから、“マーク・ルイソン”氏執筆のものとは、ひと味違うように思えます。

 特に、直接の関係者のことについては細述されていることも多く、 “ピート・ベスト”、“スチュアート・サトクリフ”、“アストリッド・キルヒヘャ”、“シンシア・パウエル”、“アラン・ウィリアムズ”や“小野 洋子”といった顔ぶれの事については詳しく触れられていました。その出生から、両親のことや生まれ育った環境、学歴等のこと、ビートルズとの接点と交流、関係の終焉とその後、などについてまで言及していることもあり、1冊の書籍の中で、これらの人物一人一人に対してのデータがここまで詳しいものは無かったように思います。

 これらは、執筆者の音楽誌発行者としての立場と、元々関係者とのコネクションを有しているという立場が生かされてこそであると感じました。

 但し、初心者の方などで「ビートルズ史を知りたい」と考えているような方には、この書籍からは事実関係を年代順に把握することは難しく、不向きと考えられ、その点では『ビートルズ / 全記録』①②(或いは『ザ・ビートルズ ワークス』)の方がお薦めと言えます。

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