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節 歯科クリニック 03-3496-1903

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CAUTON!

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The Beatles Art

 この写真の人物、いったい誰なのか、お判りになりますか? これは、「The Beatles」のリーダーだった“John Lennon”その人の若き日の姿を捉えたものです。そしてその遙か後方、ぼんやりとした姿で確認することが出来る、ベースギターを携えた人物は“スチュ”こと、“Stuart Sutcliffe”です。彼は“John Lennon”の唯一無二の親友とも言える、そしてその当時「The Beatles」のメンバーのひとりで、初代ベーシストでもあった人物です。
これは元々、この写真の撮影者であり、その「ネガ」の所有者でもある“アストリッド・キルヒヘャ”さんの「オリジナル・ネガ」より拡大して直にプリントされた巨大な“写真”なのです。 従って、若き日の“John Lennon”のバストアップの「公認写真」(印刷物ではない)としては、国内でも随一のものではないかと。 かなりのインパクトがあり、これを初めて間近でご覧になられると、圧倒されるかもしれません。つまりこれは、当医院の「シンボル」ともいえるものなのです。
追記:全然関係がない、どうでもいいような話なんですが、この作品を蔵出しして待合室に飾り、そしてこの解説を書いていたある日のこと、長年当院に通われているとある患者さん(おば様です)から、「これ(写真の人物は)先生ですか?」と聞かれたのです。 「はぁ?、冗談は止めてください、そんなわけありません、私とは似てもにつかないですよ!」って、当然答えましたが.....。

2.「ビートルズは元は5人組」だったという事実を私が初めて知ったのは、今から35年以上も前の‘74年頃だったでしょうか?
黎明期の胎動を感じる若き日の姿をとらえたこの写真が昔から大好きでした。時は1960年メジャー・デビュー前、場所は独逸のハンブルク。そこには明日の成功を夢見、静かな情熱を内に秘めた若者たちの姿が。
 このポスターは、この時ほかにも多くの写真を撮影している“アストリッド・キルヒヘャ”さんと“ユーゲン・ボルマー”氏による「The Beatles in Hamburg」と題した写真展を、1991年に独逸のミュージアムで行ったときに作成された、撮影者公認のものです。
タイトル中央部上に、撮影者の直筆サインが入っているのが見えます。 元々は中学生頃、何らかの印刷物から日本の業者が勝手にブローアップして製作した、恐ろしく画質の悪い、当然版権所有者無許可の品であろう同デザインのポスターを、何かのイベント会場で入手しいつも部屋に貼っておいた、そんな思い出のある作品でもあります。

3. 1962年4月、21歳の若さで亡くなった、ジョンの「リヴァプール・カレッジ・オブ・アート」の同級生で親友であり、ビートルズの初代ベーシストでもあった“スチュアート”が、リバプールの街角でベースギターを抱えて静かに佇む姿の写真と、彼の遺品であるヘフナーNo.333ベース・ギターを、2000年頃にロンドンのcafeで捉えた写真です。グループが「ザ・シルヴァー・ビートルズ」〜「ザ・ビートルズ」を名乗ったのが、彼が加入していたこの頃で、ジョンとともに“The Beatles”のその名前の考案者であるともされています。参考までに、当時“スチュ”と“ジョン”と、後に彼の先妻となる“シンシア・パウエル”(ジュリアン・レノンの母)の3人と、英国の音楽誌『マージー・ビート』の創刊者“ビル・ハリー”が「リヴァプール・カレッジ・オブ・アート」では一緒という関係でした。
 尚、この生前“スチュアート”が愛用していた『ヘフナーNo.333ベース・ギター』は、彼のグループ脱退にともない、自らも「ベーシスト」の道を歩むことを決めていた“クラウス・フォアマン”氏が譲り受けたのでした。そしてその後、“クラウス”氏が独逸から離れて生活拠点を英国に移すことになった渡英の際に、他のギターやテープレコーダーなどと共に、同氏の手によってロンドンまで運ばれてきたというのがそ の経緯です。

4. 2000年、とある日の“早朝”のアビー・ロード・スタジオ前で、自らカメラに収めた風景です。というのも、車も人も居ない、早朝の時間帯でないと、この場所でこのような写真を撮影することは、まず不可能なのです。
要するに、このような写真を自ら取りたいと思うような方はみなさん、世界中からこの目的だけのためにロンドンのアビー・ロード・スタジオ前まで、早朝のまだ少し暗いうちから出向いていって、このような撮影をするのでした。所在地は3 Abbey Road St. John's Wood London NW8 9AY まあ、熱心なファンにとっては、事実上の“ラスト・アルバム”とされる“Abbey Road”のタイトルにもなったStudioは神聖な場所でもあり、また自分自身がそのジャケットの撮影されたその場所に立つということを、誰しも一度は夢見るものであって、それは大変感慨深いものでしょう。

5. ビートルズ史の中でも、最大級に重要な「キー・パーソン」といえば、“Klaus Voorman”氏であると、個人的には思っています。 この方が、ハンブルクのクラブ「カイザー・ケラー」に出演していたビートルズを観て感動し、後日、当時自らのガールフレンドだった“アストリッド・キルヒヘャ”さんを伴って再び訪れた(結果として、それが“スチュアート”に引きあわせてしまった事に)、ということがなかったら、その歴史も変わったものになっていたかも知れません。
そしてこちらは、アルバム「Revolver」のジャケット・イラストも手がけたその“クラウス・フォアマン”氏が、当時同作の依頼をジョン・レノンから受け、その製作の過程とそれが’66年グラミー賞の“ジャケット・デザイン賞”受賞をもたらすまでといったエピソードを、ジャケット・デザイン(グラミー賞の対象なので米Capitol盤)の下部分に、自ら小品の漫画として描いたものが楽しくさせる、限定制作のミニ・ポスターです。通しNo.170/555のもので、ご本人が私の目の前でじかに、自ら書いてくださった私あての個人名と、ご本人の直筆サインが最下部に確認出来ます。これはリヴァプールを訪れた際、ご本人に会って直接手渡しして売っていただいた時の、思いで深いものなのです。
快くこちらの要望にも応じて下さった、笑顔の似合うとても気さくな良い方でした。あの時、伝説の人物にお会いすることが出来たのは、本当に幸いな事でした。

6. この写真は有名なので、ご存じの方も多いのではないかと思います。“アストリッド・キルヒヘャ”さんが手がけたものと感じが似ていますが、こちらは“ユーゲン・フォルマー”氏の手による、やはりハンブルクに於いて、1961年に撮影されたものです。 ポーズを取る“ジョン”の前を、わざとふざけるように横切っている人物がブレて影のように写っていますが、この三人はスチュとポール、ジョージです。
これはポスター(印刷物)ではありますが、撮影者監修により、その所有する「オリジナル・ネガ」を元にして500枚のみ限定製作された、「撮影者の公認ポスター」というものです。
左下の部分には、210/500のナンバリングと“Jürgen Vollmer”と確認出来る直筆のサインが書き込まれているのが、その証というわけです。
 この写真は、後にジョン・レノン’75年初旬発売のソロ・アルバム「Rock’n Roll」のアルバム・ジャケットにも転用されたのでした。
そして、このロックンロール・アルバムを最後に、一度ジョン・レノンは表舞台からその姿を完全に消してしまい、殆どの“大衆”は彼のことなど「もはや過去の人」として忘れ去っていきました。
そして次に姿を現すのが、およそ5年後の「あの事件」の前になります。当時の音楽シーンで、5年間もの間姿を見せないということは、アーティストにとってはもはや“死”を意味しました。
それでも私自身は、この「Rock’n Roll」と同年の下旬に発売された、「SHAVED FISH」(削りブシ)というタイトルの、これまでの総括とも言えるベスト盤を糧にして、(前代未聞のこの状況下にあって尚)まるで孤立無援であるかのような心境でも、復活を信じ、待ち続けていました。
しかし、「再登場」した彼を待っていた運命については、もはや言うまでもありませんね。

7. こちらも“John Lennon”自身によって描かれたイラストを元にしてデザインされた版権者公認のアート・ポスターです。ポスターとしては比較的大きめなもので、1989年のアメリカ・NYC製でした。イラストの題材になっているのは、1970年にオーストリアのウィーンで“ジョンとヨーコ”によって開催されたピース・イヴェント「BED IN」を行ったときの模様で、ホテルの1室を貸し切ってベットに入ったままくつろいだ状態のような二人に対して、その周りを取り囲むようにして集まった(何も起こらないことに?)困惑した様子の取材陣、といった当時の模様を、第三者の視点から描ているものです。タイトルを“BED IN FOR PEACE”と題された1枚です。

8. “John Lennon”自身によって描かれたイラストを元にしてデザインされたアート・ポスターですが、当時の管理元の「Bag One Arts」公認と言うことで、1991年にアメリカで発行されたものです。イラストのタイトルは、“A Family Tree”というもので、大きな木の根元に寄りかかるジョンと一緒に、その彼にもたれ掛かるように寝そべったヨーコの二人が、まるで“アダムとイブ”のように素っ裸で描かれているものです。
二人の顔もかわいらしく描かれている微笑ましい姿に、眺めていると心穏やかな気持ちになる一枚ではあり、お気に入りでもあります。D IN FOR PEACE”と題された1枚です。

9. これはジョン自身によって描かれたイラストを元にしてデザインされた、「リト・グラフ」と呼ばれる“John Lennon”関連アートで、たしか当時の管理元の「Bag One Arts」のライセンス下に米国で製作されて輸入されたものです。入手時期は1993年頃だったように記憶しています。
「リト・グラフ」と呼ばれるものは、印刷されたポスターの類とは違って、“版画”のような刷り物なのです。この作品にも、やはり282/300の通しナンバーが入っており、少数限定に製作された美術品という扱いのものです。
 この作品を所有することとなった切っ掛けについてですが、当時たまたま数寄屋橋にあった小さなギャラリーの前を通りかかった際に目に入ってしまったことで、元々そのようなつもりはまったくなかったにもかかわらず、まるで惹かれるように足が止まってしまった位のお気に入りだったこれを「医院に飾っておきたい」気持ちに駆られ、何も迷こと無く即決で選んでしまった、というものです。
同じ時、そのあと他にも一応参考までにということで、デザインの違う数種類のものがあって見せてもらったような記憶がありますが、そんな中でも、元々が“笑顔を湛えて仲良く並んだ、「親子三人」の幸せそうな表情”に惹かれての事だったため、それにより初めの気持ちが変わるようなことはまったくありませんでした。まさに“一目惚れ”という感じに。

10. 独逸人のフォトグラファー“Astrid Kirchherr”さんの「セルフ・ポートレート」と呼ばれる作品で、リヴァプールを訪れた際に、街の中のギャラリーで入手した、撮影者公認“写真”です。鏡の中の自分に対して、愛用の二眼レフカメラRolleicordを向けて撮影したもので、やはりご本人の「オリジナル・ネガ」より直に拡大プリントされた小品の1枚です。
 この方とビートルズの接点こそ、前述のように当時恋人関係にあったといわれている“Klaus Voorman”氏が、ハンブルクのクラブに出演していたビートルズを観たことから端を発しているのです。 時は1960年、自らの意志とは関係なく連れて行かれたその場所で、彼女は自分の人生を変えるような、運命的な出会いをすることになりました。
その人こそ、“Stuart Sutcliffe”だったのでした。
“アストリッド”が“スチュアート”と出会ったことにより、その結果としてビートルズや、その周囲にもたらされた事とは?
“アストリッド”さんが“スチュアート”に一目惚れしてしまったことで二人の関係が急速に近づき、恋人関係となり、その末に短期間のうちに婚約まで果たすことになります。
その間には、上記のような写真撮影をおこなったりしています。そうしたなか、始めに“スチュアート”の髪型を自らの手によって変えさせたことが、次に他のメンバーへと広がっていき、それが最終的には「モップ・トップ」と呼ばれたビートルズのトレードマークともなるヘア・スタイルの原型になったものとなります。
それ以前の彼らと言えば、当時の若者に支持された映画「乱暴者」(1953)のMarlon Brandoや、その影響を受けたElvis Presleyなどに代表される、革ジャンとジーンズ、そして「ダックテール」と呼ばれた横髪を後ろへなで付けた髪型を真似ていたのでした。
その他にも、初期にビートルズが好んで着用していた“襟なしジャケット”の考案者も彼女であるとされています。
また最も有名なのが、当時彼女が好んで使っていた独特の、「ハーフ・シャドー」と呼ばれる撮影法を用いたもので、敢えて左・右どちらかの側面からライティングをすることにより、他方の半側に陰影を作り出すというものであるこの手法が、後にビートルズの2ndアルバムのジャケットのアイディアとして(無断で)用いられ、その出来が当時の一般的なポップ・グループのものとは一線を画したものとなった結果、これは彼らが「芸術性も高い」ことの証として評価を得たことでした。しかし、こうした事実は後年になるまで、具体的に語られることはなく、結果としてビートルズの初期イメージを決定付けることとなった、こうした多くの事柄についての彼女の功績は、まったく評価されていませんでした。
 そして彼女との出会いから、“スチュアート”はアートの勉強への道へと再び目覚め、ハンブルク州芸術大学への進学の果たし、独逸で暮らすことを選ぶことで、ビートルズを脱退することとなりました。この「初代ベーシストの脱退劇」を切っ掛けとして、メンバーは4人に落ち着き、そしてついには、“ポール・マッカートニー”が念願のベーシストの座(そしてビートルズのNo.2の座をも)を手にする事となったのでした。
そしてまた、“スチュアート”の出現により恋人を失う結果となった“クラウス・フォアマン”さんも、彼らと同様な「ベーシスト」の道を歩むことを選び独逸から離れ、生活拠点を移すことになります。 それから程無い1962年4月、“スチュアート”は21歳の若さで、恋人と、そうした仲間のすべてを置き去りにしてこの世を去ってしまうのでした。
 彼がこの、短かった人生の中で、出会った人々の運命をも大きく変えてしまったのだという事実、その存在がもたらした影響は計り知れないものと言えましょう。

Stuart Fergusson Victor Sutcliffe
11. こちらは直接の展示品ではありませんが、参考までに“Stuart Sutcliffe”氏の遺影の1枚です。素顔はサングラスに隠されて見えませんが、どことなく陰のある、線の細そうな感じがします。彼の死から数年遡った1955年9月にやはり早死にをした“James Dean”を思わせるような。

12.“Jürgen Vollmer”氏の撮影による“スチュアートとアストリッド”です。ビートルズのメンバーとしての写真の時とは違ってサングラスをかけておらず、「恋人たち」を撮したプライベートな作品であるためか、彼の素顔を観ることが出来る一枚です。
残念ながら、これはポストカードサイズの印刷物しか所有しておりませんが、個人的に気に入っている作品です。

13.“Stuart Sutcliffe”氏による生前の作品で、「HAMBURG 1961 Cat No. 21」と題されたものです。
1989年に氏の作品の管理者「STUART」によってLondonで発行された、599/850の通しナンバーと、遺族である妹の“Pauline Sutcliffe”のサインが書き込まれた公認複製画(ポスター)で、サイズ的には割と大きめの作品です。ここに掲載されてはおりませんが、これ以外にももう1種類あります。
この方の、生前の作品もそれなりの数が残されており、1994年に日本では「スチュアート・サトクリフ絵画展」が催されました。
 また、2000年にリヴァプールを訪れた際に入手して私も所有している「STUART: The Life and Art of Stuart Sutcliffe」という生前の記録+作品集で構成された限定出版の大型書籍が作られています。“The biography”と呼ばれる記録部分がサイズ240 mm x 170 mmの232ページ、“The sketchbook”と呼ばれる作品集がサイズ185 mm x 112 mm 152ページの豪華本です。発行者は Pauline Sutcliffe と Kay Williamsで、序文をAstrid Kirchherr、後書きをCynthia Lennonがそれぞれ添えています。
これには、上記の人々も含めて、当時の関係者の多くが協力して携わっているため、“Stuart Sutcliffe”に関してのその殆どが網羅されていると思われます。
 余談ながら、“ポール・マッカートニー”は自分こそが“ジョン”の相棒となるべきビートルズのNo.2であり、ベーシストとなりたかったかったことから、邪魔な存在であるジョンの親友“スチュアート”を追い出すため、日夜彼に辛く当たっては、イジワルを行っていたそうです。(ずっと後年になってそれを認めて、勿論「反省」しておりましたが。)彼の死後、念願のベーシストと、ビートルズのNo.2の座をも手にしたわけですが、多少は“後ろめたい”気持ちがしたんでしょうね。当時はまだポールだって18歳で、高校の上級生くらいだったんですから、“若気の至り”というわけです。そして、皮肉なことに、上記の“スチュアート”の実妹の“ポーリーン”さんは、当時は“ポール”のファンだったそうで、自分の兄にイジワルなことも知っていたとか? それでも“ポール”がカッコ良かった、とのことです。
 以下には、“Stuart Sutcliffe”氏の作品「Mixed Media on Paper Humburg 1960-1962」を参考までに、その一部を掲載しております。

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